■戒名(法名)料は・・・・
最近は、「戒名(法名)料はどうも不透明で・・・・」と言われます。「戒名(法名)」や「お布施」の値段は本当によくわかりません。ところで、亡くなった時に頂く「戒名」や「法名」には、どんな意味があるのでしょうか。
■いろいろな名前
戒名や法名もそうですが、古来、日本には本名(実名)の他に幼名(ようみょう)、字(あざな)、渾名(あだな・ニックネーム)、老舗で受け継ぐ職業名(店主名)、芸術家などの俳号(はいごう)や雅号(がごう)、ペンネーム、歌舞伎や芸事の芸名、力士の四股名(しこな)、それにネオン街には源氏名なんていうのもあります。
日本人は昔からいろいろな名前を付けてきましたし、今でもそうした習慣が残っています。これは命名・改名や襲名して名跡を継ぐと、その人の運命や人格が変わるという、日本の「言霊」(ことだま)の考えが根底にあります。言霊とは言葉や名前に霊魂が宿ることです。名前を付けると、その名にふさわしい「たましい」がやどる、というのです。ですから、生まれた子の命名をとても大切にしてきました。今はどうも少し違うようです。
■名を正す
「論語」(第十三)にこんな話があります。門弟の子路(しろ)が、「衛(えい)の国王から政治をまかされたら、先生は何から着手されますか」と尋ねると、孔子は「まず名を(実質どおり)正しくする」と言われ「名が正しくないと、言葉に秩序がなくなり、仕事にならない。礼節も音楽の調和も失われ、道理がなくなるから、刑罰が乱れ、人々は不安で手足を休めることも出来ないからだ」と。つまり、「名」には実質(内容)がともなうことが大切だ、と孔子は説いています。日本でも「名実ともに日本一」とか「名は体をあらわす」などといいます。中国には「名僧伝」(めいそうでん)がなく「高僧伝」(こうそうでん)しかありません。それは、名前だけ有名で中身はからっぽのお坊さんではなく、名実ともに高潔な高僧たちの伝記を後の世の手本に残したからです。
■戒名・法名のルーツ
中国や日本も昔は、成人には「本名」で呼ぶことを避けました。本名には魂が宿っているので、みだりに呼んではいけない、という考えです。そこで人々は、本名の代わりに「字」(あざな)や「諱」(いみな)を付けて呼びました。「字」(あざな)は、成人(元服)した時に付ける名前です。「諱」(いみな)とは「忌み名」のことで、人が亡くなると生前の本名で呼ぶことを避けるために付けます。また、生前の功績をたたえて贈る称号を「諡」(おくりな)といいます。古代中国の「礼」のきまりで、中国の天子や日本の天皇あるいは朝廷から贈る「諡」(おくりな)を「諡号」(しごう)といいます。弘法大師や伝教大師も諡号(しごう)です。中国では3000年以上も前から「字」(あざな)や「諱」(いみな)、「諡」(おくりな)が定められ、日本にも影響を与えました。
後には中国や朝鮮から仏教が伝わり、「戒名」・「法名」という新しい名前が日本に入って来ました。「法の名字の意。法号(ほうごう)、あるいは法諱(ほうき)と称す。出家授戒(しゅっけじゅかい)の時、俗名を改めて授けらるる法の名字をいう。・・・法名は授戒の後授けらるるが故に戒名とも称す」と、辞典にあります。(「望月佛教大辞典⑤」「法号」)。もちろん生前に頂く名前です。
ところが日本だけは、亡くなると髪を剃り(剃髪)、戒を授け(授戒し)、戒名(法名)をつける習慣が生まれました。いわば仏教の「諱」(いみな)で、日本以外の仏教国にはない習慣です。勿論、仏教の影響が大きいのですが、古くから日本に「言霊」(ことだま)や死後につける「諱」(いみな)の考え方が根付いていたことも見逃せません。
■成仏往生のため
もともと「戒名」と「法名」に違いはありません。世俗の生活を捨て(俗名を捨て)て、仏教の信仰に生きる仏弟子となった「あかし」に頂く名前です。それが没後に戒名(法名)をつけるようになるのは、仏教によって「死者を救う」ためでした。亡くなった人をホトケ様として「成仏」させ、苦しみのない安楽の「極楽浄土」へ往生させるには、どうしても故人を「剃髪」にし、「授戒」させて仏弟子とする必要があります。その「あかし」が没後の戒名(法名)で、仏式の葬儀は、まさに故人の得度式(とくどしき)です。
■戒名(法名)のしくみ
没後の戒名(法名)が始めて文献に出るのは室町時代の「松平記」(1535年)です。続いて江戸時代に「日葡辞書」(にっぽじしょ・1603年~4年成立)には「カイミョウ=死後に付ける名」とあります。(「日本語大辞典③」小学館)江戸時代に檀家制度ができると、宗派別に「戒名」・「法名」・「法号」などの呼び方がハッキリします。例えば、浄土真宗は「戒」の授受がありませんから、「戒名」といわず「法名」といいます。日蓮宗では「戒名」の他に「法号」といいます。これは「法華経」でお釈迦様が智恵第一の弟子といわれた舎利弗(しゃりほつ)に「華光如来」(けこうにょらい)の号(仏号=法号)を授けたことに由来します。(「法華経」・譬喩品(ひゆぼん)第三)そのほかの宗派では普通「戒名」といいます。
日本最初の法名は、飛鳥時代に司馬達等(しばたっと)の娘・嶋(しま)が11才で出家した時の「善信尼」(ぜんしんのあま)でした。(「日本書紀」巻20・敏達天皇13年=584年)また聖武天皇は鑑真和上から受戒され、法名(法諱・ほうき)「勝満」(しょうまん)を受けられました。(754年)以後、歴代天皇のうち30代もの天皇が法名を受けておられます。(辻善之助著・「日本仏教史」①・岩波書店)ところで「善信」も「勝満」も二字ですが、戒名(法名)は本来、二字が原則で、今でもそれは変わりません。「いや、うちの位牌の戒名はちがう」と言われそうですが、見慣れた戒名は、ほぼ次のとおりで、そのうち、「○○」の二字が本来の戒名(法名)です。
□ □ 院 △ △ ○ ○ 居 士
(院号・院殿号) (道号)(戒名) (位号)
◎□□ 院号(院殿号)
「院」や「殿」は皇族、貴族、武士が出家、隠棲して住居を寺院に寄進した場合に贈られる尊号です。院号の最初は冷泉天皇の「冷泉院」、院殿号は足利尊氏の「持統院殿」で将軍家だけのものでした。江戸時代には天皇や貴族の院号より武家の院殿号を上位とし、それが今も続いています。ところで、みなさんは、お寺にお堂を寄進して「院殿号」を頂きますか?院殿号や院号とは本来そういう意味の尊号です。尚、真言宗では梵字「ア」(大日如来)を院(殿)号の上につけ、子供には「カ」(地蔵菩薩)をつけます。(智山派は戒名の上につける。)
◎△△ 道号
道号は、中国の禅宗で仏教を極めた時に、戒名とは別につけるもので、「字」(あざな)ともいいます。一休宗純(いっきゅうそうじゅん)や夢窓疎石(むそうそせき)の一休と夢窓が道号です。未成年の時は道号をつけません。浄土宗では「誉号」(よごう)があり、「△誉」とし、特に五重相伝(ごじゅうそうでん)を受けた人だけにつけます。
◎○○ 戒名(法名・法号など)
江戸末期の「塩尻」に「法名に戒名あり、道号あり。されど中世までは貴人といへども只二字の法名の外(ほか)、別に道号を書く事なし。御堂関白道長公の法名を行覚(ぎょうかく)と号し・・・・」(第55)とあります。(「望月佛教大辞典」)戒名・法号は宗派の特徴をしめす特別な文字を入れる他は、どの宗派も二字です。日蓮宗には日蓮聖人にちなむ「日号」の「日○」(男女)や「法号」の「法○」(男)・「妙○」(女)があります。浄土真宗の法名は「釈○○」(男)「釈尼○○」(女)とします。
◎位号
「居士」(男)は在家の篤信家です。インドの維摩居士(ゆいまこじ)や中国の寒山・拾徳(かんざん・じっとく)などは僧侶をしのぐ仏道体得者として有名です。「大姉」(女)とは尼僧のことでしたが、居士に対する女性の位号に用います。「禅定門」(ぜんじょうもん・男)・「禅定尼」(ぜんじょうに・女)は、浄土宗で五重相伝(ごじゅうそうでん)を受けた人につけた位号ですが、今では他宗派も用います。「信士」(しんじ・男)・「信女」(しんにょ・女)も僧・尼僧のことでしたが、在家の位号に用いられます。以上のいずれにも「大」や「清」(女)字を付けて大居士・清大姉のような尊称としています。子供の場合、7才から15才までは「童子」・「童女」を、それ以下は「幼子(ようじ)・幼児」「嬰子(えいじ)・嬰児」・「孩子(がいじ)・孩児」(以上男子)、「幼女」・「嬰児」・「孩女(がいじょ)」(以上女子)と書きます。不幸にも死産や流産された場合は「水子(すいじ)」とします。
■浄土真宗の法名
浄土真宗の法名は、院号(院殿号)・道号・位号を原則としてつけません。「釈○○」(男)・「釈尼○○」(女)だけです。最近は、「他よりも見劣りがする」というので、門徒さんの希望を入れて院号や位号をつけることもあります。先生個人は、真宗の表記は仏教の原点どおりシンプルで、しかも実が感じられるので、とても好感をもっておられます。
■戒名(法名)のあり方
「戒名(法名)料が高くて不透明」なのは、どうも「等価交換」になっていないから、戒名に見合う「価値」が感じられない、という不満です。実はこの「価値」を支えるのは「信仰」です。皆さんに「信仰がないからだ」と、一方的に責めているのではありません。むしろ、形ばかりの枕経をあげて、高い戒名料を取る一部のお坊さんに、「故人を救う」宗教者としての自覚と信念がないことにこそ、問題の本質があるような気がするのですが・・・・これからの戒名(法名)には、「名を正す」こと、つまり没後の戒名(法名)の本質にもう一度立ち帰る必要がある、と先生はお考えです。
故人に戒名や法名をつけ、あの世でホトケ様となって安らかに極楽往生して頂く、という、すばらしい仏教の「死者を救う」
理念を「名実ともに」活かすことが大切だ、と先生はお考えです。