■村のはずれでみてござる
お地蔵様とえば、先生はすぐに口に出るのが歌謡曲『別れの一本杉』の「石ィ~の、地蔵産のォよー、村ァは~ず~れー」や、童謡『みてござる』だそうです。
村のはずれの お地蔵さんは、
いつもニコニコ みてござる
仲良しこよしでで ジャン・ケン・ポン
ほれ みてござる
『みてござる』はお地蔵様がテーマです。では、なぜ、お地蔵様は、いつも「村はずれ」で子供たちを「みてござる」のでしょうか?
■お地蔵様ってどんなかた?
お地蔵様はインド生まれのボサツです。正式なお名前はクシティ・ガルバ。クシティは「大地」、ガルバは「母胎」という意味で、漢字に意訳して「地蔵」と言われます。もとはインドの農業女神で地神でした。バラモン教の神となり、のちに仏教のボサツになります。そして「大地のようによく善根をそだてる偉大な力があり」(『地蔵十輪経』)、人々にさまざまな現世の利益をもたらし、とくに地獄で苦しむ人たちの救済という大きな使命(本願)を担っています。
お地蔵様の代表的なお経は『地蔵十輪経(じぞうじゅうりんきょう)』・『地蔵本願経』・『占察善悪業報経(ぜんさつぜんなくごうほうきょう)』(地蔵三経)です。お経によると、お釈迦様が亡くなられてから56億7,000万年後に弥勒如来(みろくにょらい)(菩薩)が世に現るまでの、仏様のいない末法のあいだ、お釈迦様から六道(ろくどう)に苦しむ人々の救済をゆだねられたのが地蔵ボサツだ、と説かれています。しかし、お地蔵様はボサツのお姿ではなく「僧形(ぞうぎょう)」といって修行僧のように頭を丸め、僧衣を身につけ、右手に錫杖(しゃくじょう)という杖、左手に宝珠(ほうじゅ)を持っておられます。いつどんなどきでも、たとえ地獄でも自ら進んで入っていって、人々の苦しみを救う、という意志のあわわれです。中国では僧形の地蔵ボサツ像が、敦厚の壁画に『十王経地獄図』として数多く描かれています。
■アミダ様を超えたボサツ
地獄にホトケ、というと、このホトケ様はアミダ様のようですが、実はお地蔵様です。例えば後白河法皇(平安末)による今様(いまよう)と歌謡の撰集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、「我が身は罪業重くして、終には泥犂(ないり=地獄)へ入りなんず、入りぬべしカラダ山(せん)(インドの地名)なる地蔵こそ、毎日の暁に、必ず来たりて訪(と)うたまえ」(岩波文庫)とあり、『平家物語』二「地獄にて罪人どもが地蔵菩薩を見奉らむも、かくやと覚えて哀れなり」(小教訓の事)とか、近松門左衛門の浄瑠璃『女殺油地獄(おんなごろしあぶらじごく)』上に「地ごくの地ぞう」などの用例があります。
私たちは、あの世で苦しむ人々を救うのはアミダ様、思いがちです。たしかにアミダ様は「臨終の時、私の名前を称え(「ナムアミダブツ」ととなえ)る人はみな極楽浄土へ往生させる」と誓われました(『阿弥陀経』)。しかし、生きているうちか臨終のときに念仏を称えないとお迎えに来てくれません。ところが、お地蔵様は、臨終や念仏に関係なく、有縁無縁の人がすでに地獄に堕ちて苦しんでいても、地獄まで出かけて行って、必ずみんな平等に救って下さいます。そこで地蔵ボサツの人気がアミダ様を超えてしまったのです。
平安末に、お釈迦様の教えが滅びるという末法思想がひろまると、名もない人々はこぞってお地蔵様の信仰をはじめ、日本中に「地蔵信仰」が急速に普及しました。それは今でも根強く生きています。
■エンマ大王はお地蔵様の化身
でも、それくらいで驚いていてはいけません。あの恐ろしい地獄のエンマ大王の正体が、実はお地蔵様だった、というのです。先ほど『地蔵本願経』巻上に「地蔵ボサツは六道で罪苦に苦しむ人々を教化(きょうげ)することを本願とし、人々が成仏するまでさとりを開かない、と誓われ、地獄で苦しむ人々を救うためエンマ大王と化る(なる)」とあります。『地蔵十輪経』序品にも「あるいはエンマ大王の身と作(な)り、あるいは地獄の獄卒のとなり、あるいは地獄の身となって人々を救う」とあります。そこで、時には、地獄・餓鬼・畜生の三悪道(これが「三途」です。)に堕ちて苦しむ人々の身代わりになって、地獄の責め苦をうけられます(身代わり地蔵)。お地蔵様はそれほど慈悲深いお方だったのです。
■賽の河原のうた
そんなところから、民話の中にも親しみをこめて、いろんなお地蔵様が数多く活躍します。重労働や田植え作業をする泥足地蔵・土付地蔵・田植地蔵・戦場で危ないところを救う勝軍(しょうぐん)地蔵・矢取(やとり)地蔵・縄目地蔵、また子供の守り本尊として子安(こやす)地蔵・子育地蔵・夜泣き地蔵など、多くの人々からひろく親しまれています。とりわけ子供の成長と安全を守るお地蔵様ほどありがたいものはありません。
とても悲しいことですが、人にはいとけない我が子を失わなければならない時があります。幼くして亡くなった子供たちは三途の川のほとりにある「賽の河原」で、懸命に石を積んで「石塔」をつくっています。その情景をうたったのが「一つ積んでは父のため」という『賽の河原地蔵和讃』です。
・・二つや三つや六つ七つ、十にもたらぬ幼児が、・・・
小石小石を持ち運び、これにて回向の塔を積む・・・
一重(ひとえ)積んで幼児(おさなご)が、紅葉のような手を合わせ、父上菩提と伏し拝み、二重(ふたえ)積んでは手を合わし、母上菩提回向する、三重(みつえ)積んでは古里に、残る兄弟わがためと、礼拝回向ぞしおらしや、・・・・
おりしも西の谷間より、能化(のうけ)の地蔵大菩薩、ゆるぎ出でさせ給いつつ、・・・今日より後は我こそを、冥土の親と想うべし、幼きものを御衣(みころも)の、袖や袂に抱き入れて、・・・いまだ歩まぬ嬰児(みどりご)を、錫杖の柄に取り付かせ、・・・助け給うぞありがたや。
お地蔵様が「あの世の親」になって、幼い子供たちを慈しんで下さっています。だから、幼い子供のお墓にはお地蔵様を墓石として用います。それは宗派を超えた、人々の切なる願いの表れでもあります。
■六地蔵とお墓
墓地の入口やお寺でお地蔵様が六体並んだ「六地蔵」をよく見かけます。
もちろん天界・人(にん)界・阿修羅(あしゅら)界・畜生道・餓鬼道・地獄の六道それぞれの世界で苦しむ人々を救うためです。そして、また死者と生者の境界にあって、ちょうど「道祖神」や「塞(さえ)の神」と同じ境界石の役目をしています。(本シリーズ『なぜお墓は石なの』を参照して下さい。)
境界石は私たちが住み暮らしている日常の世界と、そうではない外の世界(異界)との境目立てられ、さまざまなはたらきをします。昔は今ほど交通がよくありません。外の世界と往来(ゆきき)はごく限られていたので、善いことも悪いこともみな、日常でないことは外からやって来る、と思われていました。善いことは大歓迎ですが、疫病などは村の境界に塞の神をつくって防がねばなりません。未知の外の世界へ出て行くときは、村はずれで旅先の安全を祈るために道祖神をつくりました。同じようにお墓の入口は、生きている人の世界と亡くなった人の世界との境界です。そこに立つ六体のお地蔵様は、あの世へ旅立つ人の安全と安らぎ(救い)を祈る「道祖神」であり、死者が迷ってあの世からこの世に帰ってこないための「塞の神」です。
六地蔵は、もとは六観音の発想から生まれた信仰です。当初は天台宗と真言宗とでは、お地蔵様の持ち物も呼び名もちがっていました。しかし、長い間に宗派にこだわることもなく、庶民レベルで、ひとつの六地蔵にまとまっていきました。それが、民俗です。そしてこえを「習俗」といいます。習俗はその国民が共有する「良識」のようなもので、だれの心にも素直に響く、とてもわかりやすい宗教ではないかと、先生はお考えです。特定の宗教ではなく、日本人のだれでも理解できる宗教だろう、と思われています。
「これこれ石の地蔵さん、西へ行くのはこっちかえ」(『旅笠道中』)と美空ひばりさんも歌っていました。路傍の石のお地蔵さんは、旅する人の安全を見守っています。さまざまな苦しみ、悩み、かなしみを救い、私たちの願いをかなえ、かよわい者や正直な人の味方をしてくれます。そして、おさない子供が大好きです。
無心に遊ぶ子供たちを村はずれや町の辻から、あたたかな眼差しでいつも「ニコニコみてござる」お地蔵様は、すこやかで善い子に育って欲しい、という私たちの素直な気持ちのわらわれにほかなりません。亡くなった家族があの世で苦しまず、いつまでも安らかでいて欲しい、と願う、残された家族の祈りそのものです。私たちはお地蔵様やアミダ様や観音様のお名前をお借りしていますが、そこに託されているのは、私たち一人一人の、そして家族みんなの末長い「しあわせ」と「健康」ではないでしょうか。
石のお地蔵さんを見かけたら、そんな気持ちで静かに手を合わせて下さい。