■なぜお墓に「写経」なの?
「お墓には、写経を入れた方がよい。」といわれたり、お墓の本で読まれたかも知れません。ではなぜ、お墓に写経を納めるのでしょうか。いつこんな習慣ができたのでしょうか。写経にはどんな意味があるのでしょうか。
今回のテーマはお墓と「写経」です。
■「写経」はお経のコピー
仏教は、今から2,500年ほど前の古代インドで、おシャカ様によって生まれました。おシャカ様は80歳(紀元前480年頃)で入滅(にゅうめつ)されましたが、残された500人のお弟子さんたちが集まって、おシャカ様の言葉(教え)を正しく残すため、「私はこのように聞いた(如是我聞・にょぜがもん)」と全員で一つ一つ確認しながらまとめました。それでお経の最初は必ず「如是我聞」で始まります。おシャカ様の入滅直後から数百年間に何度も行われた「仏典結集」(ぶってんけつじゅう)です。しかし、聖人の言葉は「口伝」する、インドの古い習慣によって文字にせず、そのまま暗誦して伝える方法が採られました。
それから数百年後に口伝ではなくターラ(多羅樹・たらじゅ)の葉に文字でお経が記録され始めました。これが「貝葉」(ばいよう)で、「写経」つまりお経のコピーの始まりです。日本にも中国からもたらされた古代インド語の貴重な「梵文(ぼんぶん・サンスクリット語)貝葉」が奈良の法隆寺に残っています。中国にたくさんの「梵文貝葉」が伝えられましたが、漢訳されると原典は棄てられて、ほとんど残っていません。そして、中国で木版印刷が発達すると、「写経」は別な意味を持つようになりました。
■写経の功徳とは?
「写経」は、多くの人々を救う目的の「大乗仏教」を主張するお坊さんたちによって始められました。中国・チベット・朝鮮半島・日本にに伝わった仏教はほとんど大乗仏教です。大乗仏教のお経には「写経」をすると、はかりしれない功徳がある」と説いています。それを強調するのは『法華経』で「法師品(ほっしぼん)第十」には「法華経を心にとどめ、口で読み、人に教え、手で写経し、このお経に花・香・水などを供え、供養し、合掌し、うやまえば、・・・・・・この人は来世で必ず仏となる」(岩波文庫『法華経』中・142頁以下)とあります。「写経」をすると来世では、必ず仏となれるのですから、たいへんな功徳です。
ちなみに「功徳」とは、善い行いを積むことで、「解脱(=完全な悟り)」を得るための「福徳」が備わることです。つまり善い行いを「貯金」することです。そのうえ自分で貯めた功徳は、貯金と同じように、亡くなった人の幸せ(=冥福)のためや、他の人にもふり向けることができます。他の人に融資できるのです。これは大乗仏教をささえる重要な「回向」(えこう)の考えです。(梶山雄一著『「さとり」と「回向」』講談社新書)写経の他に、功徳をつむには、寺を造る(造寺)・仏像を造る(造仏)・卒塔婆(ストゥーバ)を造る(造塔)・三宝(仏・法・僧)を供養する、などがあります。
■追善のための写経
おシャカ様が説かれた教えの「経典(お経)」は、のちに、経典そのものが信仰され始めます。おシャカ様のお骨(仏舎利・ぶっしゃり)を納める仏塔(ストゥーバ)を信仰するグループができたころです。いえ、「仏塔」や「写経」を信仰する新しい仏教徒たちが「大乗仏教」を生み出したのです。(梶山・前掲書)
写経は中国や日本でも大々的に行われました。当初の目的は記録です。中国では後漢のころ(25-220年)にはじまり、日本では天武天皇の白鳳2年(673)に「始めて一切経を川原寺(かわらでら)に写したまふ」とあり(『日本書紀』第29)、飛鳥でお経の全集(「一切経」)が書き写されました。後に写経司(役職)や写経所(役所)がおかれ、国家事業となります。
同時に中国や日本では記録とは別に「功徳」を積み、亡き人の生前の罪をなくすこと(懺悔滅罪・さんげめつざい)などを願って、写経がさかんに行われました。写経の末尾に「願文」(願い事)や「為書」(目的)を書きますが、奈良時代のお寺や正倉院に残る写経は、ほとんどが「過去七世の父母」のための「追善」とか「滅罪」を込めた「願文」が書かれています。(石田茂作著『写経より見たる奈良朝仏教の研究』東洋文庫。竹田聴洲『先祖崇拝』平等寺書店)これは、そのころ中国で行われていた写経の功徳や考えをそのまま受け入れたものですが、日本への仏教の伝来とともに入ってきました。
■インドの埋経と日本の経塚
孫悟空でおなじみの『西遊記』に三蔵法師が登場します。モデルの玄奘法師(げんじょうほうし・602-664年)は、唐代を代表するたいへんな高僧です。玄奘がインドへ経典を求めて17年間(629-645年)に及ぶ大旅行をした記録が『大唐西域記』(だいとうさいいきき)です。この書は当時のインドや西域の仏教事情をつぶさに見聞した貴重な記録ですが、その中に、おシャカ様のお墓(卒塔婆=ストゥバー)を作って「写経」を納める「埋経」のことが出ています。「印度の風習に香木の粉末を練って高さ5・6寸の小さな卒塔婆を作り、書き写した経文をその中に安置する習慣があり、これを法舎利と言っている。数が次第に増えると大きな卒塔婆を建てて、これをみな集めて常に供養を行うのである」とあります。(水谷真成訳『大唐西域記』巻9「摩掲陀(まがた)国」下・平凡社)おシャカ様の仏舎利(ご遺骨)がないときには、仏舎利と同じ価値があるとされる「写経」が用いられました。これを特に「法舎利」(ほうしゃり)といいます。当時のインドのお墓にお経を写して納める(埋経)風習がひろく行われていたことがわかります。
それが中国に伝わり、やがて日本の平安時代に始まる「経塚」として独自も信仰が生まれました。経塚とは、お経(とくに『法華経』を「如法経」(にょほうきょう)といいます)や仏像・鏡などを経筒や経壺に入れて霊山といわれる山のお堂や石塔の下に埋めたものです。収められるお経は『法華経』が最も多く、次いで『弥勒下生経』(みろくげしょうきょう)や『阿弥陀経』(あみだきょう)などが
あります。現在、全国に560余りの経塚が分かっています。平安時代に経塚を日本に伝えた天台宗三世・円仁(慈覚大師・864年没)が遺言してつくらせた比叡山・横川(よかわ)の如法堂(経塚)や、関白藤原道長(1027年没)が吉野山(奈良)の金峰山寺(きんぶせんじ)に埋めた金銅製の「経筒」(国宝)はその代表的なものです。
道長の経筒には「阿弥陀経は極楽往生のため、弥勒経は生死の罪を除く・・・」(銘文)とあり、円仁のは「願わくばこの功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」(『如法堂筒記』・にょほうどうつつき)と「願文」にあります。(藪田嘉一郎著『経塚の起源』綜芸舎。関秀夫「経塚とその遺物」『日本の美術9』至文堂ほか)
■写経とお墓
貴族ではなく、一般の人々が写経をお墓に埋めたのは鎌倉時代から、と先生はお考えです。それは全国で活躍した「別所聖」(べっしょひじり)や「高野聖」(こうやひじり)が広めました。先生が訪ねた霊場の山寺(立石寺・りっしゃくじ・山形)や鎌倉の「やぐら」、高野山奥の院、弥谷寺(いやだにてら・香川)、臼杵石仏群(大分)などの五輪塔や石仏には小さな穴があり、写経ともにお骨・遺髪を納めた跡がありますし、室生寺の弥勒堂(奈良)、八葉寺(福島・会津)山寺などでは、何百、何万基という高さ10㎝ほどの小さな木製の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)に小さなあながあけられ、お経・お骨・遺髪が納められているからです。また全国には、お葬式のとき、「経帷子」(きょうかたびら)や霊場札所の「朱印」のある「白装束」を棺桶に覆ったり、死者に着せる風習もあります。これらは「写経」をお墓に埋めるのと同じ意味です。亡くなった人の生前の罪をすべて消し去り(「滅罪」)、無事に「成仏」し、安らかな「極楽往生」を願う、家族の祈りと優しい想いが込められています。
■写経のすすめ
先生は「写経」を勧めておられます。
ひとつには、忙しすぎる現代人の生活に、静かに写経をする心のゆとりが大切だ、と思われているからです。写経の前に手を洗い口をすすぎ、静かな部屋にお香を焚き、背筋を伸ばし、ゆっくり硯で墨をすります。これは心身と部屋の準備です。写経は必ず毛筆で書きます。字の上手・下手は関係有りません。市販またはお寺で頂いた「手本」を見ながら、罫線のある専用紙(市販)に、急がず一字一字丁寧に楷書で書く練習を何度も繰り返します。字を書く時は心と体に余分な力を入れないことが肝心です。宗派別の写経は、お寺さんに相談してください。浄土真宗以外は『般若心経』が最適です。真宗の方は『証信偈』(しょうしんげ)がよいでしょう。誤字・脱字などの修正や「願文」「為書」の書き方は市販の本に出ています。
亡き人の幸せを祈りながら、間違わずに書けたら、「願文」を書いて、お墓に納めて下さい。その時、とても爽やかな気分に気付くはずです。