■供養ってどんなこと?
私たちは「供養」(くよう)という言葉をたいてい「先祖供養」の意味で使っています。同じような供養に「追善供養」(ついぜんくよう)や「卒塔婆供養」 (そとうばくよう)があります。しかし、「どういうこと?」と聞かれたら、ちょっと困ります。まず、辞書を見てみることにします。『広辞苑』(岩波書店)
には、「三宝(仏・法・僧)または死者の霊に諸物を供え回向すること」、「敬・行・利の供養、仏・法・僧供養などの種類がある」と、あります。でも、これ ではなかなか読めませんし意味が分かりません。「死者の霊に諸物を供え回向すること」はどうにか分かりそうですが、回向ってなんでしょう?そこで『岩波国
語辞典』(岩波書店)を引くと、「死者の霊に供え物をして、死者の冥福(めいふく)を祈ること」とあり、冥福によみ仮名がついています。これなら「先祖供 養」に近いのですが、冥福は「・・・?」です。では、日本の「先祖供養」はどのようにできたのか、それからみてみましょう。
■インド仏教の卒塔婆供養
二千四百年ほど前、お釈迦様が八十歳でご臨終の時、弟子たちに最後の説法をされ、「私の遺骨の供養(崇拝)には、お前たちはかかわるな」と言われました。 それから、葬儀の方法を説かれ「火葬ののあとストゥーパをつくり花輪・香料をささげて礼拝するなら、長い利益(りやく)と幸せがある」といわれました。そ
こで信者の王たちによって仏舎利(ぶっしゃり・お骨)は八つに分けられ、その後二百年の間に八万四千の塔廟(とうびょう)、つまりストゥーパ(卒塔婆)が 建てられました。残された在家の信者たちは石柱や欄干の石を寄進し、いつしかお坊さんも熱心に卒塔婆を供養し礼拝しはじめたのです。これが「卒塔婆供養」 (お墓の供養)のはじまりです。
そこでインド仏教の死者供養ですが、まずお釈迦様のお骨(仏舎利)を納めるストゥーパ(卒塔婆)に花やお香を供えて供養・礼拝して、自分の功徳(善い行いによる徳)を積みます。その功徳によって亡き父母たちのあの世での幸福(=冥福)を祈ったのです。
この仏舎利やストゥーパ(塔)を供養すると大きな功徳があると説いたのが、有名な『法華経』(ほっけきょう)という大乗仏教のお経です。
■中国仏教と先祖祭祀
中国に仏教が伝わり、サンスクリット(古代インド語)の「プージャ」という言葉が「供養」と訳されましたが、じつは中国では、仏教が入る前から「供養」という言葉が儒教の書物の中にあったのです。
お釈迦様が生まれる前の、紀元前二千五百年ころにできた『礼記』(らいき)には、朝廷がお年寄りや障害ある人たちを扶養することを「供養」といっています。また、紀元八十年ころできた『漢書』では、先祖の霊廟に供物を供えることを「供養」と、いっています。
中国では三千年前の「殷」(いん)の時代には「先祖祭祀」という大切な儀式がすでにありました。先祖を祀ることは、現代中国になるまで、国と家庭のとても大切な行事でした。それが仏教の教えと結びついたのです。
『広辞苑』にあるように、インド仏教では、仏・法・僧の「三宝」を供養することが本来の供養でした。だから、「仏」であるお釈迦様の遺骨(仏舎利)とその お墓(ストゥーパ=卒塔婆)の供養があくまで中心なのです。人々はその供養をして功徳を積み、それを亡き父母へ差し向ける(回向する)ことで「死者供養」 をしたのです。
ところが中国仏教となると、直接、先祖や亡き父母を(霊廟で)まつる儒教の「先祖祭祀」の考え方が仏教に取入れられ、この大きな変化が日本に影響を与えます。
このようにインド仏教の言葉を漢文に訳すとき、中国にあったもとの意味をそのまま仏教に採り入れることがしばしばありました。「供養」はそのよい例です。
■日本独自の先祖供養
日本へは千五百年前に中国仏教が伝わり、明治になるまで漢文のお経だけが使われました。それでインド仏教と儒教それに日本独自の習慣とがバランス良くミックスされた先祖供養になりました。これは他の仏教国では見られないものです。
日本では、お仏壇にご本尊さま(仏)をまつり、ご先祖様のお位牌や浄土真宗のように法名軸(ほうみょうじく)をまつります。これは儒教の「霊廟」(れい びょう)とインド仏教のお釈迦様(仏)への供養がミックスされています。またお墓参りをしてご先祖様を供養する習慣も、インドのストゥーパ(卒塔婆=仏舎 利を納めたお墓)供養と、中国の先祖供養(祭祀)が結びついた形です。
しかし、中国では、お墓参りは仏教とは関係がありませんし、よほどではないかぎり霊廟(日本の仏壇にあたる)にご本尊さまをお祀りしません。たしかにイン ドや中国の供養の考えが入っていますが、インドや中国のやり方どおりでないのが、日本の先祖供養の特徴です。
■地獄と追善供養
お釈迦様のころにはなかった教えが、その後出てきました。「六道輪廻」(ろくどうりんね)や「地獄と極楽」などです。
人が亡くなると、次に生まれ変わるまでに四十九日間は、七日ごとにあの世(瞑府)の七人の王による裁判を受けて、次に生まれる世界が決まる、というので す。そのために生前の善行と悪行を判定します。もちろん最善の人は裁判なしに極楽へ直行できますが、極悪非道の人もまた裁判抜きでそのまま地獄に堕ちま
す。ところが中善・中悪の人の行先は、天界・人間界・阿修羅界(あしゅらかい)・餓鬼道(がきどう)・畜生界(ちくしょうかい)・地獄の六つの世界(六 道)があります。
この六つの世界を繰り返し無限に生まれ変わることを「六道輪廻」(ろうどうりんね)といいます。しかし、極楽へ往くともう輪廻はありません。これが「解脱」(げだつ)で、輪廻からの解放です。
冥界の王たちは、さまざまな方法で生前の行いを突きつけて死者を厳しく責めますが、最後に必ず、遺族による「追善供養」(ついぜんくよう)のことを調べま す。追善供養のよって、あの世(瞑府)や六道のどこかに生まれ変わって苦しむ故人を救うことが出来るからです。人が亡くなって、四十九日、百ヶ日、一周 忌、三回忌、十三回忌・・・・お盆、お彼岸に行う供養が「追善供養」です。
ちなみに、百ヶ日、一周忌、三回忌はみな儒教の習慣で、先ほどの『礼記』(らいき)に出ています。ただ、百ヶ日は中国になく死後百日目くらいが「卒哭」(そっこく)の日に当たり、日本でこれを「百ヶ日」といったようです。
『地蔵本願経』(じぞうほんがんきょう)というお経に、「追善供養をすると、その七分の一だけ亡き人に回され、残りの七分の六は供養をした本人の功徳にな る」とあります。ということは、四十九日間の間、七日ごと七回の追善供養をすると、ちょうど満願になり、晴れてめでたく極楽往生できる仕組みになっていま す。
このお経にはまた、「生前に、あらかじめ自分の死後の供養をしておくと、全て功徳になる」とあります。これは「逆修」(ぎゃくしゅう)「預修」(よしゅう)といいます。生前に戒名を頂いて、お位牌をつくり、お墓を建てておこなう法要のことです。
■お墓供養の意味と仕方
では、お墓の「供養」はどうやるのでしょうか。密教では、お水・塗香(ずこう)・お花・焼香・飲食(おんじき)・灯明(とうみょう)の六供養をあげます。これが基本です。しかし、各宗派とも少しずつ違います。詳しくは各宗派の手引書を見て下さい。
たとえば日蓮宗では「死者の冥福を祈り成仏を期す信仰をいとなみ」。「善根功徳をつみ供物物などをささげる」仏事とあります。お墓掃除の後、お水、お花、 お線香、お供物(菓子と果物)を供え、数珠をかけて合掌し「お題目」を唱える、と『仏事供養のこころえ』にあります。そして、「卒塔婆供養」をすすめま す。
浄土真宗では、亡き人は阿弥陀様のよってすでに浄土に往っているので追善という考えがありません。霊も認めないので、墓誌は「法名碑」(ほうみょうひ)、 墓石は「南無阿弥陀仏」と刻むことをすすめ、「卒塔婆供養」をすすめません。お墓掃除や供物は日蓮宗と同じですが、合掌して「お念仏」を唱えます。そし
て、お墓は「かけがえのない命を伝えて下さったご先祖に感謝しつつ、その命を精一杯輝かせて生きてくれ、というご先祖の願いを聞く場所でもあります」、と 『仏事のイロハ』(本願寺)に書かれています。
お墓の先祖供養は、ご先祖様の冥福を祈り、尊い生命を残してくれたご先祖様を自分の身体をとおして感じ、ご先祖様を大切にすることだと、先生は思っておら れます。お墓参りとその心を代々、子供たちへ伝えているかぎりすばらしい幸福な家庭になると信じておられます。亡き祖父母や父母と、家族のみんなが信じ合 えてこそ、人として生きている意味の第一歩みがあるからだと思っておられます。
それが本当の「家族のきずな」だと考えておられます。