■墓と塔
日本には古代から今日まで、二つのお墓があります。中国生まれの「墓」と、インド生まれの「塔」です。不思議な気もしますが、「墓」と「塔」は長い間に、 日本人の精神風土の中で独自のお墓となりました。しかしそれぞれ、生まれ故郷の意味や形を確かにとどめています。
そんな「墓」と「塔」が今回のテーマです。
■墓という字
「墓」は三千年前に中国で生まれた漢字で、「土」と「莫」(まく)から出来ています。「莫」(まく)は覆い隠す、という意味なので、「墓」とは、土で死者を覆い隠す埋葬地のことです。
古代中国には埋葬の仕方がいくつもあって、それぞれ名称(漢字)がちがいます。『周礼』(中国の古典)に、庶民は土を盛り土をせず樹木を植えないで、冢 (ちょう)と言わずに墓という、とあります。『説文』(せつもん・中国の古典)には、冢(ちょう)は高く盛り土をした墓とあり「塚」と同じ漢字です。盛り
土をしたお墓には「塚」(ちょう・小高い墓)、「墳」(ふん・広くて高い墓)、「丘」(きゅう・土饅頭)「塋」(えい・かがり火を焚く大きな墓)などがあ ります。身分によって高さと広さが定められています。とくに皇帝(天子)のお墓は「山」・「陵」・「山稜」と呼ばれていました。
中国のお墓には「先祖を大切にお祀りする」という重要な意味があります。皇帝として初めて墓前で祭祀(まつり)をしたのは秦の始皇帝(前210年没)でした。それまでは、霊を「宗廟」(そうびょう)でお祀りするだけでした。
古代日本も中国文化をとりいれて、お墓を区別しました。『和訓栞』(わくんのしおり)には、平らなるを墓といい、盛り土を冢(ちょう)といい、高きを墳と いう、とあり、江戸時代にも中国の意味が生きていたことがわかります。「陵」・「山稜」は「みささぎ」と読みますが、740年に、天皇・皇太后のお墓の名
称は「山稜」と定められました。(『続日本紀』また「墳墓」(ふんぼ)という言葉も「筑紫君磐井の墳墓あり」(つくしのきみいわいのはかあり)と古くから 使われています。重要なことは、中国からお墓と一緒に「先祖を大切にお祀りする」考えが日本に入ったことです。それが古代日本の「古墳」です。そして私た ちのお墓参り(先祖祭祀=先祖供養)として続いています。
ちなみに日本独特のお墓の名称に「奥津城」(おくつき)があります。『万葉集』に初めて見えます。今でも神道のお墓には「奥津城」「奥都城」「奥城」(いずれも「おくつき」と読む)と書かれています。
■「塔」の語源は卒塔婆(ストゥーバ)
六世紀に日本に仏教が伝わると、お寺に「塔」という新しいお釈迦様のお墓が建てられました。お墓を意味する「塔」は古代インド語の「ストゥーパ」です。中 国では「卒塔婆」「卒都婆」など字があてらて、略して「塔婆」(とうば)「塔」とも言います。インドの「塔」は欧米のタワーとも違います。また、卒塔婆も 塔婆供養に使う板塔婆ではありません。「サンチーの大塔」はお釈迦様の立派なお墓です。
いまから、2400年程前にお釈迦様は亡くなられました。当時インドでは仏教だけでなく、他の宗教でもお墓のことをストゥーパといいました。しかし、仏教 を信じる人々にとってストゥーパはお釈迦様のご遺骨・仏舎利(ぶっしゃり)をおさめた墓であり、供養と礼拝をする大切な場所だったのです。その意味は、私
たちが今も受け継いでいます。日本への仏教が伝わった頃、お寺の三重塔や五重塔には必ず仏舎利が納めらました。585年の蘇我馬子が飛鳥の大野丘の北に塔 を建て、舎利を柱頭に納めたとあります。三重塔や五重塔はお釈迦様のお墓の卒塔婆(塔)だったからです。鑑真和上は唐招提寺(奈良)に、弘法大師・空海は 東寺(京都)に、中国から仏舎利を持ち帰って納めました。
■写経と米粒
でも、本物の「仏舎利」は貴重で限りがあり、誰でも簡単に手に入りません。インドでさえ640年頃には、「法舎利」(ほうしゃり)といって、仏舎利と同じ 価値とされる「写経」を仏舎利の代わりにストゥーパに収めて供養するのを三蔵法師・玄奘はインド旅行中に見ています。今でもその習慣が残っていて、お墓に 写経を納めたりします。
中国や日本に伝えられた仏舎利は、大きさも色も「米粒」に似ていたので、お米を大切にする農業国日本では早くから籾を仏舎利の代用としました。有名なのは 室生寺(奈良)の弥勒堂で見つかった三万七千三百基もの「籾塔」(もみとう)です。高さ5センチ(1寸5分)ほどの小さな木製の宝篋印塔(ほうきょういん
とう)の中に、籾一粒(まれに二粒)がお経(宝篋印ダラニ)に包んで納められていました。今でもご飯のことを「シャリ」とか「銀シャリ」といいますが、も とは仏舎利から出た言葉です。それほど日本人にはなじみがあったのです。
■インドの二つのお墓
インドには「ストゥーパ」のほかに「チャイティヤ」というお墓もあります。漢字で「支提」(しだい)と書きます。卒塔婆と支提の区別は仏舎利が納められて いるかどうかによります。もちろん仏舎利が納められているのは卒塔婆(塔)です。中国ではお骨のない先祖の霊は「霊廟」でおまつりします。霊魂の宿る神主
(しんしゅ・日本の位牌)を祀る建物です。(日本の仏壇です。広い意味では神棚・神社も含む)それで中国では「支提」を「廟」と理解していました。
でも、インドの支提は「霊廟」ではありません。お釈迦様ゆかりの聖地や石仏のある石窟などに支提を建てて、その遺徳を礼拝、供養するためのものでした。日 本ではお骨のないお墓を「供養塔」といいます。もとの意味は「本尊を納めて供養し、あわせて亡き人も供養する」もので、「供養碑」の方が適切です。平安後 期には仏教のお墓=石塔は全て「供養塔」となり「仏塔」になるからです。
■石塔ってな~に?
石塔は石の卒塔婆の略です。石で造ったお釈迦様の仏舎利のあるお墓、つまり石の「仏塔」です。しかしこれでは、私たちのお墓になりません。
ところが多武峰(とうのみね)の談山神社(たんざんじんじゃ・奈良)にある木造十三重塔は、大化改新の立役者・藤原鎌足のお墓だといわれます。お釈迦様の 仏舎利でないお骨を納めた最初の塔です。卒塔婆の意味が「人々のお骨を納めるお墓」へと変わったのです。しかし、鎌足のお墓は有力な阿武山古墳(大阪・茨 木)があるので、どうも後代の作り話のようです。
卒塔婆(石塔)の最古の記録は、天台宗中興の祖・良源の「石の卒塔婆を埋葬地に建てよ」という遺言です。また、その弟子で『往生要集』を著した有名な源信も「卒塔婆一基を建てて一同の墓所と定める」といっています。
■石塔のチャンピオン・五輪塔
ところで、なぜお釈迦様の仏舎利を納める卒塔婆(塔)が人々のお墓に変わったのでしょうか。
それは「亡くなった人はみなホトケ様になる」という「成仏」の教えが広まったからです。真言宗中興の祖・覚鑁(かくばん)は、五輪塔という日本独自の塔を つくって「五輪塔のお墓は亡き人を成仏させ、極楽往生させる」と、説きました。それを高野聖(こうやひじり)と呼ばれる多くの密教の念仏僧たちが全国へ広
めたので、当時の石塔はほとんどみな五輪塔になりました。五輪塔はいわば、石塔の初代チャンピオンです。(詳しくは次回の『五輪塔ってどんな墓』をご参照 下さい。)石塔は他に宝篋印塔・宝塔・多宝塔・層塔・卵塔などたくさんの種類と形あがります。しかし、どの石塔も、ホトケ様となって極楽往生したご先祖様
たちが安らかに眠るお墓であることに変わりはありません。だから、「仏塔」といわれ、大切に供養される「供養塔」といわれます。
■日本人のお墓文化
中国とインドで生まれた「墓」と「塔」は、先祖のお祀りや供養の意味とともに日本に伝えられ、二千年もの歳月の間に、日本独自のお墓となりました。そこに あるのは、亡くなった肉親やご先祖様に対する優しい日本人の心情です。永遠の安らぎのある「あの世」へ往って頂きたい、と願う気持ちが日本の「お墓文化」
をつくった、と小畠先生はお考えです。どうか、この素晴らしいお墓文化をお子さんやお孫さんたちにいつまでも、大切に伝えて欲しいと先生は願っていらっ しゃいます。