■良いお墓と悪いお墓?
最近小畠先生は、みなさんの前でお話しすることがおおいそうです。その講演のあとの雑談で、
「お墓には《よいお墓》と《悪いお墓》があります」と言うと、「墓相のことですか?」と聞かれるそうです。
「いいえ、墓相ではありません」
「それじゃあ、立派なお墓のことですか?」
「私の言う《よいお墓》は墓相や外見のことではありません」
吉相のお墓や広い区画に立派な石材とすぐれた技術でつくられたお墓は、見ていても気分がよいそうです。「すごいものだなぁ」と感心されるそうですが、そのお墓が必ずしも先生のおっしゃる《よいお墓》であるとは限らないそうです。お墓には、墓相や外見の立派さとは別に、もっと大切なことがあると、先生はお考えです。
それが今回のテーマです。
■『深い河』とお墓
お墓にはたいてい亡くなった夫か妻、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんなど、ご先祖様たちが眠っているはずです。しかし、生きている私たちはだれひとり、亡くなった経験が無く、お墓に入ったことがありません。そこで、先生は《よいお墓》をつくるには、自分がお墓に入った時のことを一度じっくり考えてみて下さい、これまでの「人生」を静かに振り返って下さい、と提案したいそうです。
いま「人生」という言葉を使いましたが、それにはすこし理由があります。遠藤周作さんの遺作『深い河』(講談社)に「人生」と「生活」のちがいが書かれているからです。その部分を引用します。
「お前」と彼は呼びかけた。「どこに行ったのだ」かつて妻が生きていた時、これほど生々しい気持ちで妻を呼んだことはない。妻が死ぬまで彼は多くの男たちと同じように仕事に熱中し、家庭を無視することが多かった。愛情がないわけではない。人生というものはまず仕事であり、懸命に働くことであり、そういう夫を女もまた悦ぶと考えてきた。そして、妻のなかに自分に対する情愛がどれほど潜んでいるか、一度も考えなかった。同時にそんな安心感のなかに彼女への結びつきがどれほど強くひそんでいたかも、自覚していなかった。・・・・・(中略)・・・・・・磯部(主人公)は人間にとってかけがいのない結びつきが何であるかを知った。・・・(中略)・・・・・だが、一人ぼっちになった今、磯部は生活と人生とが根本的に違うことがやっとわかってきた。そして、自分には生活のために交わった他人は多かったが、人生のなかで本当にふれあった人間はたった二人、母親と妻しかいなかったことを認めざるを得なかった。「お前」と彼は再び河に呼びかけた。「どこへ行った」(『深い河』第十章・講談社文庫より)
平成六年頃の先生は、今の世の中で「お墓の意味」をどうとらえてよいかわからず、迷路をウロウロしてたそうです。その時この本と出会って「眼からウロコが落ちる」ような体験をしたそうです。それまでの先生は、お墓を「生活」の中で考えていたそうです。
遠藤さんのいう「人生」とは「魂」の問題ではないかと、気付かれたそうです。「人生」とか「魂」と言っても、けっして難しい哲学や宗教のことではないそうです。遠藤さんの言葉を借りると、「人間にとってかけがいのない結びつきが何であったか」を知り、「人生のなかで本当にふれあった人間」を思うことです。この世に生まれて、利害や損得をぬきにふれあい信じ合うことがどんなにかけがえのないことか、それに気付くことです。それがわかる人を本当に「心の豊かなひと」、「教養ある人」だと先生はお考えです。学問・知識・お金・物質だけが「豊かさ」ではないはずです。本当の豊かさがわかった上で学識や財産があるなら、もちろんそれに過ぎることはありません。
■「人生」と「生活」のちがい
西洋のキリスト教社会に古くからラテン語の「メメント・モリ」=「死を思え」という伝統があります。
宗教や歴史のちがう言葉をそのまま今の日本に持ち込むのはあまり感心しませんが、先生はこれを日本流に応用してみたら、とお考えです。日本流とは、自分の死だけではなく、お墓のご先祖様も含めて「死を思え」と。
《よいお墓》にもどります。先生がおっしゃりたいことは、お墓は「人生」や「魂」の問題と切っても切れない、ということです。遠藤さんはこの本で、「人生にとって家族はかけがいのない大切な存在である」ことを現代の日本人に強く訴えたかったはずです。日本は昭和二十年の終戦ののち家制度を廃止しからバラバラの核家族となり「家族のきずな」を見失いかけています。お墓も急激に変わりつつあります。だから、遠藤さんは、いつの時代にも変わらない人間のきずなや「人生」と「生活」の違いに気付くことの重大さを伝えたかったのだと思います。それはそのまま現代のお墓の問題にもあてはまります。こんな時代だからこそ先生は、お墓眠っているあなたの夫や妻、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんとの、かけがいのないつながりを一つ一つ思い出して欲しいとお考えです。あなたがお墓に入ったときの気持ちを想像して欲しいそうです。あなたがお墓に入ったら、親としてあるいは祖父母として、残された家族の一人一人にどんな願いを抱いているか、を。
■よいお墓と魂の会話
お墓には「家族のきずなを確認し合う場所」というとても大切な役割があります。どんな立派なお墓でも、家族の気持ちがバラバラでお互いに信じ合えないとか、お墓参りをする家族がお墓の役割を知らなかったら「よいお墓」とは言えません。お墓を建てるだけでは「よいお墓」ではありません。家族の気持ちが「よいお墓」を作るのです。
「動物は母親はわかるが父親を知らない。万物の霊長たる人間だけがそれを知っている」といって古代中国人は先祖(父系)を大切にお祀りし、とくに「幼い子には祖父母の霊が宿る」と信じてきました。それは日本でも同じでした。では、現代に生きる私たちは、子供たちに「人生」と「生活」のちがいをどうやって教えるのでしょうか。驚いたことに、一昔前の日本人は、そんなことは、どんな家の親でもちゃんと知っていたのです。それを先生は「魂の会話」とお呼びです。今の日本の家庭にもっとも欠けているのはこのことではないか、と先生は思っていらっしゃいます。かつてどこの親でも、小学校へあがらない子に、「ハイ、○○ちゃん、お仏壇にお供えして」と言って、お仏飯とお茶(お水)を供えさせました。仏壇に仏飯とお茶をあげるのは子供の日課でした。また、頂き物をお仏壇に供えないで開けようものなら、親からこっぴどく叱られました。だれしもそんな経験が一度や二度はあるはずです。これが先生のおしゃっている「魂の会話」の第一歩です。子供の頃神妙な振りをして、親の言いつけ通りおリンを鳴らし、手を合わせたものです。
かつて日本の家庭では、そうやって物心もつかない幼い時から、ご先祖様との「魂の会話」の訓練をちゃんとしていました。今の日本にはこれがないのです。こうした訓練は子供が幼いうちでないとうまく行きません。大きくなると、恥ずかしがったり屁理屈をこねて素直にできなくなるからです。それは「もっとも健全な日本人の宗教だ」と先生はお考えです。お墓やお仏壇はまさに「日本の健全な宗教が生きているところ」です。先生は○○教や○○宗という特定の宗教だけが宗教ではないとお考えです。魂の会話の訓練を受けた子供は、やがてそのことがご先祖様を含む「家族のきずな」となることを自然に身につけて成人します。そして今度は親となって我が子に同じことを教え、親から子へ、子から孫へと何百年もの長い間にわたって「魂の会話」の伝承を受け継いできたのが戦前までの日本の家庭でした。
今は「心の時代」だそうですが、かけ声ばかりで、いったい何をしてよいのか、ちっともわかりません。先生はそれを、遠藤さんの言う「人生」や「魂の会話」ができることだろうとお考えです。亡くなってお墓やお仏壇にいるご先祖様を含め、生きている家族が、家庭のなかで信頼し、お互いかけがえのない存在であることを確認しあえるような会話が、ほんとうの「心の時代」を築くはずです。
そのためには私たちの世代が、幼い子供たちに、もっと死者との会話の練習を家庭のなかで教えなくてはならないと、お考えです。
今日から早速、かわいいお孫さんに「魂の会話」のすばらしさを教えてあげて下さい。